ビジネス、投資は労働から脱却する手段の一つ
—村主さんはビジネスや投資、労働をどのように捉えているのですか?
僕は学生時代から普通に就職することが絶対にできないと思っていたので、労働という行為について昔からよく考えていました(笑)。労働って一般的には「労働=お金」で、お金を稼ぐための行為が労働と定義されているので、拝金主義のど真ん中にいる僕たち現代人は、お金が発生しない行為は価値がないと評価する傾向が極端に強いと思います。
例えばアート業界で言うと美大を出ている人はみんな絵が上手ですし天から賜りし才能と努力の結晶を表現しているので、それだけで本来的に言えば価値があります。他にも、何百年という歴史と文化を継承してきた伝統工芸も同様にそれ自体が素晴らしいものであり価値があるものですが市場や需要がなくお金が付随しなければ価値がないものとされて淘汰されてしまいますよね。
―私たちが価値があると思っていることは本質的な価値とイコールではない??
そうですね。介護や、保育、福祉、教育や物流などのエッセンシャルワーカーと呼ばれる人は社会にとって必要不可欠であり本質的な価値がある仕事ですが、やろうと思えば比較的誰でも挑戦できるという意味で、相対的な価値が低く見積もられていて、それが基本的な給与や年収に反映されています。つまり、本質的な価値がある仕事だけれど労働価値としては高く評価されません。
一方で、金融のプロと呼ばれる人たちの商品やサービスは本来的に言うとなくても困らないですしそのサービスがないことで社会が回らないということはありません。けれど彼らの行為で巨額のお金が動き、かつ誰でもできる仕事ではないので相対的な価値が高いと認識されて億単位の収入を得られている。つまり、本質的な価値と労働の価値はイコールではないということです。
その前提にたって僕たちが多くのお金を得て、なるべく不自由なく生きることを考えるならば、本質的な価値を一旦横に置き、「労働=お金」という世界のルールをハックすることが先決です。何が一番レバレッジがかかり行動の幅を広げられるのか、生きやすいのかを考えることが、やりがいやお金のジレンマから脱却する近道になります。
短期間でビジネスを成功させバイアウトして資本を作り、それを元手に投資をして自分自身が労働とお金から解放されることがファーストステップ。ビジネスや投資というのは労働(お金)による思考的物理的束縛から解放される手段にすぎないと思っていて、重要なのはビジネスや投資で成功することよりも、その先に何をしていくのかだと考えています。
労働を昇華した先にあるもの
—「労働=お金」から解放されたら人は何を目指していくものなのでしょうか?
理想は、お金による思考の制限を受けずに自分が本来やるべきことを追求することです。自分の魂の目的、生まれてきた意味はなんなのか、仮にそれに辿り着いたらそれを実現することに価値を置き、誰かに影響され指示されたものではなく、自分の心のわくわくに100%従って生きる状態を目指したいですよね。
―村主さんの見える世界は、労働やお金から解放される前後でどう変わりましたか?
全く別の世界になりましたね。解放される前は労働やビジネスは自己承認欲求を満たすためのもので自分の能力やエゴを証明するツールにすぎなかったなと思います。当時はお金が儲かれば何だってよかったので自分自身の身を削って極限まで自分を追い込みました。
大学の同級生が新卒で入社する24歳までに自分はFIREすることが目的だったので、そのために業界、業種問わず結果が出ることが正義であり、よりよい成果に結びつくかどうかが判断基準だったので、そこに使命感とか世のため人のためという考えはなかったですね。
たぶんこれは僕だけではなく殆どの人がそうだと思うんですよね。自分に用意された課題があり、それは1人ではクリアできないので、社会という大きな枠の中でたくさんの人と機能し合いながら社会に成果物を出す労働から始めていく。その中で不自由や理不尽、葛藤を抱えながら自分とは何なのか、何をするために生まれてきたのか、どうやって人の役に立つのかという思考を何周も繰り返して、本来の自分のあるべき姿に近づいていくんだと思います。
投資と抽象度の関係
―労働から解放された人はみんな村主さんのように抽象度を上げていけるのですか?
そこと抽象度の高さとは関係ないですね。投資の世界、つまり労働から解放されることで得られるのはあくまでも自分の自由度と、お金と主従関係にあるような思考、拝金主義を軸にした行動原理からの解放です。その結果、ゲームをしたりマンガを読んだりといった好きなことを好きなだけできるようになったり、家族との時間をたくさん持てたり、自然に囲まれて悠々と暮らすことができたりします。労働から解放されたからといって自然と抽象度が上がるものではないですし、そこは個人の自由であり、選択です。
—抽象度を上げていきたい場合はどうしたらいい?
表現が少し矛盾して聞こえると思うんですが、いかに社会に今すぐ必要とされていないことをしていくか、ですかね。社会に今すぐ必要とされているということは逆に言うと、その労働やアウトプットがより具体的で分かりやすいことだと思うんです。
ー社会に必要とされなくなるのは怖いし、自分の存在理由が無くなってしまう気が…
「必要とされない」というのは今この瞬間、目先のことにおいては必要ではないという意味です。例えば投資家が投資する事業というのは、今すぐ結果はでないけど、5年後とかに必要となるものがあったりします。彼らは未来を予測して今すぐには価値は無いけれど将来的に価値が生まれそうなものに対して信じてBETします。
もちろんその投資が失敗すると、今も価値はないし5年後も価値が出なかったなんてこともしょっちゅうありますが(笑)。
—自分の価値を上げられる人、そうでない人、両者の違いは?
一番の違いは行為に対する評価軸(行為の成果を測る時間設定)の長さではないでしょうか。評価軸が短期であればあるほど実労働に寄ることになるので、お金と引き換えに思考や行動の自由を制限されることになります。反対に長期になるほど投資的行為に近寄っていくので今すぐ必要ではなさそうなことや本来自分がやるべきことができるようになります。
どちらが良い、悪いではなく自分が今どのステージにいたとしてもそこから抜け出した時に得る大きな達成感、悟りのようなものを得られることが人生の醍醐味だと思います。
その中で自分の市場価値を上げたいというマッチョな思考がある方は、いっそ10年ぐらい捨てる覚悟で、商業世界から一番遠いところで自分の価値を上げるためだけに時間を費やして、全てを10年後に回収するぐらいの張り方をしてみるのも面白いんじゃないかと無責任には思いますね(笑)。